作家紹介

 岡田美知代は、1985年(明治18)4月18日、広島県甲奴郡上下村(現・府中市上下町)に生れた。岡田家は、田畑山林を多く所有する豪家であり、金融業も営んでいた。
 父・胖十郎は、備後銀行の創設者の一人。後年には県会議員や上下町長を務めるなど町の名士で、1897年(明治30)、町制施行により上下町が誕生した時点で、町内第四位の多額納税者であった。
 母・ミナは尾道の生まれで、同志社女学校を卒業。
 夫婦ともども熱心なクリスチャンで、1896年(明治29)、上下町にキリスト教講義所を作り、その廃止後も町内の伝道に尽力した。

父・胖十郎と母・ミナ〔府中市上下歴史文化資料館提供〕
父・胖十郎と母・ミナ〔府中市上下歴史文化資料館提供〕

 美知代は5人兄弟の長女(長兄・實麿、次兄・束稲、弟・三米、妹・萬壽代)である。長兄の實麿は、同志社、慶応義塾を経て、アメリカのオベリン大学に留学。帰国後は神戸高等商業学校(現・神戸大学)や夏目漱石の後任として第一高等学校(現・東京大学)の教授となった著名な英語学者である。後年には、上下町の実家と花袋、美知代、永代静雄との間に入って調停も行った。

美知代の兄・實麿〔府中市上下歴史文化資料館提供〕
美知代の兄・岡田實麿〔府中市上下歴史文化資料館提供〕
上下小学校全景〔府中市上下歴史文化資料館提供〕
上下小学校全景〔府中市上下歴史文化資料館提供〕

 美知代は、上下高等小学校を卒業後、1898年(明治31)に神戸女学院に入学、その後、神戸教会で洗礼を受けた。1902(明治36)年頃から、雑誌『中学世界』に和歌や短文の投稿を始め、文学を志した。 1903年(明治36)、本科3年次に、「ふる郷」などの作品を愛読していた田山花袋に書簡を出して入門を懇願。数度の書簡往復のあと、入門が許された。

 翌年2月に神戸女学院を中退し、父・胖十郎に付き添われて上京。はじめは牛込区若松町の花袋宅に寄宿し、その後、花袋の妻りさ(里さ・利佐子)の姉・浅井かくの家(麹町区土手三番町)に転居して、津田英学塾予科に通学した。

女学生時代の美知代〔田山花袋記念文学館提供〕
女学生時代の美知代〔田山花袋記念文学館提供〕

 当時、花袋は博文館に勤務しており、1904年(明治37)3月から9月まで日露戦争に記者として広島の宇品港から従軍して留守であった。この間も美知代との間に文通を行なっている。

明治37年6月、美知代が戦地の花袋に出した手紙〔田山花袋記念文学館提供〕
明治37年6月、美知代が戦地の花袋に出した手紙〔田山花袋記念文学館提供〕
美知代の花袋宛書簡に同封された菫の花〔田山花袋記念文学館提供〕
美知代の花袋宛書簡に同封された菫の花〔田山花袋記念文学館提供〕

2 恋愛事件による帰郷と花袋の「蒲団」

 1905年(明治38)春から体調不良で一時帰省していた美知代は、8月、神戸教会の夏期学校において、かねて見知っていた同志社の学生・永代(ながよ)静雄と親しくなる。


永代静雄の美知代宛の白百合の絵葉書(明治38年5月13日)〔田山花袋記念文学館提供〕

 9月の上京の途次、京都で落ち合った永代と膳所を遊覧したが、これが花袋と実家に発覚。永代も上京したため、花袋は美知代を義姉の家から自宅に戻し、父・胖十郎と善後策を相談した。

 翌1906年(明治39)1月18日、美知代は上京した父親に連れられて上下町に帰郷。
 郷里では『文章世界』『新声』『文藝倶楽部』『新潮』『実業之横浜』といった雑誌に積極的に投稿する。美知代と静雄の恋愛についても、花袋の「蒲団」に先行して美知代自身が作品化しており、花袋もそれに目を通していた。「蒲団」には美知代の小説と同様の表現が使われているのである。

 美知代が帰郷した年の10月、山陰旅行の途上の花袋が上下町の岡田家に2日滞在して一家から歓待を受けた。この体験は、後年「備後の山中」で叙情的に回想されることになる(『日本一周』中編、1915年(大正4))。

岡田家〔府中市上下歴史文化資料館提供〕
岡田家〔府中市上下歴史文化資料館提供〕
上下町の名所・上下川〔府中市上下歴史文化資料館提供〕
上下町の名所・上下川〔府中市上下歴史文化資料館提供〕
昭和初期の上下町〔府中市上下歴史文化資料館提供〕
昭和初期の上下町〔府中市上下歴史文化資料館提供〕
花袋『日本一周』(復刻版)
花袋『日本一周』(復刻版)

 翌1907年(明治40)9月、花袋が自身と美知代・静雄をモデルにして「蒲団」を発表(『新小説』)。女弟子への片思いと性欲を描いた内容が大きな反響をよびおこす。

 ゴシップの渦中におかれた美知代は、手記を発表するかたわら、創作と投稿を続けた。
 『女子文壇』1908年(明治41)4月臨時増刊号「文壇の花」特集では、短篇小説「侮辱」で天賞を受賞し、巻頭に肖像写真も掲載されている。

『女子文壇』「文壇の花」特集号
『女子文壇』「文壇の花」特集号
巻頭の肖像写真
巻頭の肖像写真
美知代の小説「侮辱」
美知代の小説「侮辱」
尾道で撮影された美知代の写真〔田山花袋記念文学館提供〕
尾道で撮影された美知代の写真〔田山花袋記念文学館提供〕

3 再上京と結婚・出産

 1908年(明治41)4月、美知代は2年3カ月ぶりに再上京した。
 白山御殿町の兄・實麿宅に住み、永代静雄と再会する。
 静雄は同年2月から、須磨子の名で『少女の友』にルイス・キャロル『不思議の国のアリス』の翻訳「アリス物語」を連載中であった(~翌年3月)。

 同年9月、美知代は妊娠を知って、九十九里に隠れ住む。
 12月には牛込区原町で静雄と、静雄の友人の中山三郎の3人で同居。

 これを知った美知代の実家は激怒した。このため、翌1909年(明治42)、美知代は戸籍上、形式的に田山家の養女となり、永代静雄と結婚披露の通知状を出す。
 永代は『旅行新聞』『東京毎日新聞』から、春ごろ『中央新聞』に移籍。
 3月20日には長女・千鶴子が生れた。

静雄・美知代夫妻と千鶴子〔田山花袋記念文学館提供〕
静雄・美知代夫妻と千鶴子〔田山花袋記念文学館提供〕

 この年の5月以降、美知代は筆名を「岡田美知代」から「永代美知代」と改めている。
 美知代は、静雄の勤務する『中央新聞』に少女小説と、無署名ながら美知代作と推定される連載小説を2編執筆していた。

 11月には永代と別れて、千鶴子を連れて田山家に戻り、4月から花袋の内弟子となっていた水野仙子(服部貞子)と代々木初台の家で共同生活を始める。
 1910年(明治43)、長女・千鶴子を、花袋の妻りさの兄・太田玉茗の養女として入籍。千鶴子と水野仙子とともに、二月に仙子の故郷福島県の飯坂温泉で1カ月暮らし、3月に太田玉茗が住職をつとめる建福寺(埼玉県羽生)に1カ月滞在して千鶴子を慣らしたあと、千鶴子を置いて東京に戻った。
 しかし、その後、4月20日、美知代は仙子と暮らす代々木初台の家を出て、永代と復縁した。
 このあたりの経緯は、花袋の「縁」(『毎日電報』1910年3月~8月)や、この記述に反論・対抗する形で書かれた美知代自身の「ある女の手紙」(『スバル』1910年9月)・「里子」(『スバル』1910年10月)・「岡澤の家」(『ホトトギス』1910年12月)、などに文学化された。


花袋『縁』口絵〔田山花袋記念文学館提供〕

 1910年(明治43)、『富山日報』の記者となった永代と共に富山に移り、富山市三王町33番地に住まう(永代静雄「入社の辞」は『富山日報』明治43年6月6日)。
 美知代は、『中央新聞』に続き、『富山日報』にも、少女小説や記事を掲載している。
 翌1911年(明治44)3月5日、長男・太刀男が誕生。

太刀男(6歳)〔府中市上下歴史文化資料館提供〕
太刀男(6歳)〔府中市上下歴史文化資料館提供〕

 静雄は4月に創刊された大阪の『帝国新聞』に入社するも、同年6月30日、養女に出した千鶴子が、脳膜炎のために2歳で死去。
 7月、傷心をいやすために、永代とともに大分県別府で療養して、12月に上京した。

千鶴子の墓(羽生・建福寺)〔田山花袋記念文学館提供〕
千鶴子の墓(羽生・建福寺)〔田山花袋記念文学館提供〕

 同年初夏に、平塚らいてうが『青鞜』創刊に際して生田長江の勧めにしたがい年長の女性作家たちに賛助員を依頼した。美知代にも依頼状が送られたが、居所不定の時期で届かず、付箋付きで返送された。
 らいてうは、《そんなわけで永代さんと「青鞜」とはついに無縁でおわりました》と記している(平塚らいてう『元始、女性は太陽であった─平塚らいてう自伝』上巻、大月書店、1971年)。
 もし依頼状が無事に届いて、『青鞜』賛助員になっていたとしたら、その後の美知代の文業はどうであっただろうか。

4 少女小説と翻訳

 1912年(明治45=大正元)、永代静雄は、秋に『東京毎夕新聞』に入社し、12月には「不思議の国のアリス」の翻訳書『アリス物語』(紅葉堂書店)を刊行した。(→国立国会図書館デジタルコレクション

「永代静雄『アリス物語』(国立国会図書館蔵)」
永代静雄『アリス物語』〔国立国会図書館蔵〕

 1917年(大正6)2月に、美知代は田山家と協議離縁して上下町の岡田胖十郎の戸籍に復籍し、翌3月に永代の戸籍に入籍している。

静雄と美知代
静雄と美知代〔府中市上下歴史文化資料館提供〕
美知代が刺繍した財布(永代静雄の妹・山田のぶゑへのプレゼント)〔田山花袋記念文学館提供〕
美知代が刺繍した財布(永代静雄の妹・山田のぶゑへのプレゼント)〔田山花袋記念文学館提供〕

 その後、永代は、毎夕新聞社の編集局長にも昇進したが、1920年(大正9)、毎夕新聞社を退社して、新聞及新聞記者社(のち、新聞研究所と改称)を設立した。

 美知代は、最初に子どもが誕生した1909年(明治42)から少女小説を書き始め、大正期に入ると、『少女世界』『少女の友』『ニコニコ』『家庭パック』『少年倶楽部』などの雑誌に少女小説・童話・歴史小説や軽い読み物を量産した。
 美知代の少女小説の特色は、同時代の良妻賢母教育とは異なり、一定以上の教育を授かることのできる階層であれば、女性も十分に知的な営みが可能であるというメッセージがこめられている。

美知代(30歳代)〔府中市上下歴史文化資料館提供〕
美知代(30歳代)〔府中市上下歴史文化資料館提供〕

 『花ものがたり』『奴隷トム』『愛と真実』などの創作集や翻訳書の刊行も大正期のことである。

『奴隷トム』(ストウ夫人「アンクル・トムズ・ケビン」の翻訳)
『奴隷トム』(ストウ夫人「アンクル・トムズ・ケビン」の翻訳)

5 渡米と帰国、晩年

 1926年(大正15)、美知代は永代静雄と別れ、太刀男を連れて、『主婦の友』特派記者の肩書でアメリカに渡った。カリフォルニアで成功をおさめた従姉妹の福井千恵を頼っての渡米であった。
 永代との離縁や渡米の動機については、性格の不一致や、生活苦、永代の深酒に嫌気がさして禁酒国アメリカに向かったなどの諸説があるが、はっきりしない。同様に、アメリカでの美知代についても、残念ながらほとんど不明の状態である。

 渡米の翌1927年、結核にかかった太刀男が単身帰国して、父の永代に引き取られる。

 永代は、同年に大河内ひでと再婚。
 美知代も、アメリカで知り合った佐賀県出身の花田小太郎と再婚した。

アメリカでの美知代(52歳)〔府中市上下歴史文化資料館提供〕
アメリカでの美知代(52歳)〔府中市上下歴史文化資料館提供〕

 太平洋戦争の開戦前夜の1941年(昭和16)3月、美知代は花田とともに帰国。
 すでに、師・田山花袋は1930年(昭和5)5月、喉頭ガンのために死去しており、長男・太刀男も1932年(昭和7)5月、数え年22歳の若さで亡くなっていた。

 美知代夫妻は、帰国当座は親族の岡田六一を頼って広島市に暮らしたが、翌1942(昭和17)、亡くなった妹・萬壽代の嫁ぎ先である八谷(やたがい)正義の家(広島県庄原市川北町)に移った。
 八谷正義は、東北帝国大学農学部の出身で、欧米に留学後、台北帝国大学や北海道帝国大学で教え、戦後は長く庄原市長を務めた。

現在の八谷家の長屋門。美知代夫妻はこの長屋門の左側に一時期住まった。
現在の八谷家の長屋門。美知代夫妻はこの長屋門の左側に一時期住まった。

 翌年、美知代夫妻は、同じ庄原市川北町大神宮境内にある八谷家の別邸に移居、ここが終の住処となった。
 1944年(昭和19)、前夫・永代静雄が死去し、美知代は永代の戸籍から除籍した。
 1957年(昭和32)1月7日、夫の花田小太郎が死去。

 同年ごろから、田山花袋研究者で東京学芸大学教授の岩永胖が、美知代宅を数度訪問して、聞き取りを行う。この訪問を契機に、美知代は花袋との関係や「蒲団」に描かれた時期について回想するようになり、1958年(昭和33)には、「花袋の「蒲団」と私」(『婦人朝日』、7月1日)、「私は「蒲団」のモデルだった」(『みどり』、10月)の二つの手記を発表(いずれも「永代美知代」名)。さらに、「国木田独歩のおのぶさん」「云ひ得ぬ秘密」を執筆して、往時を回想している(生前未発表)。ほかに、明治末から大正期にかけて雑誌等に掲載した数作品を改作して原稿化した。

自宅にて、晩年の美知代(左側)。〔撮影・原博巳氏、府中市上下歴史文化資料館提供〕
自宅にて、晩年の美知代(左側)。〔撮影・原博巳氏、府中市上下歴史文化資料館提供〕
晩年の手記「私は「蒲団」のモデルだった」(1958年)
晩年の手記「私は「蒲団」のモデルだった」(1958年)
生前未発表の原稿「国木田独歩のおのぶさん」〔府中市上下歴史文化資料館所蔵〕
生前未発表の原稿「国木田独歩のおのぶさん」〔府中市上下歴史文化資料館所蔵〕

 美知代は、帰国後も日課として英語の勉強を続けた。晩年の美知代と親しくした原博巳が美知代から英語を習い始めたのは、この頃からであった。

晩年の美知代は、書き損じの原稿用紙にビッシリと英語を書いて練習した。〔府中市上下歴史文化資料館蔵〕
晩年の美知代は、書き損じの原稿用紙にビッシリと英語を書いて練習した。〔府中市上下歴史文化資料館蔵〕

 1968年(昭和43)1月19日、老衰のため82歳で死去。

美知代の墓(広島県庄原市川北町)
美知代の墓(広島県庄原市川北町)

6 岡田(永代)美知代の現在

 岡田(永代)美知代は、田山花袋の小説「蒲団」の女主人公・横山芳子や「縁」の敏子のモデルとしての強大なフィルターのもとで扱われ、小説家・翻訳家としての彼女自身に言及されることは極めて少なかった。長期にわたり、著作リストや年譜は整っておらず、一般の読者が美知代の作品を身近に読むことのできる機会も乏しかった。研究面でも、「ある女の手紙」など一部の限られた作品が花袋研究の文脈で取り上げられる程度であった。

 だが、近年、美知代の人と文学を再評価する気運は高まっている。
 2011年に刊行された『新編 日本女性文学全集』第三巻(菁柿堂、2011年)には美知代の2作品(「ある女の手紙」「一銭銅貨」)が収録され、美知代作品に触れ得る機会が増加した。同書には吉川豊子による丁寧な解説も付されている。

 また、美知代の生家は町が取得して改修された後、2003年に上下町歴史文化資料館として開館(現在は、府中市上下歴史文化資料館)。美知代の未発表原稿などの資料を収集・展示し、企画展を開催するほか、花袋が上下町を訪ねた折に宿泊した部屋や礼状も保存公開されて、文学者・岡田美知代とその文学の普及を図っている。

府中市上下歴史文化資料館
府中市上下歴史文化資料館

 研究面でも、種々の動きが出てきている。
 やはり田山花袋研究の蓄積は厚く、従来も花袋研究者によって美知代に関する新たな資料の発掘や紹介がなされてきた。とりわけ重要なのは、群馬県館林市が刊行した『『蒲団』をめぐる書簡集』である。これは田山花袋記念文学館が所蔵している花袋・美知代・静雄らの書簡の翻刻と小林一郎による解説からなるもので、『蒲団』の成立や、この時期の花袋・美知代の動向を知るうえでの第一級の一次資料である。

『『蒲団』をめぐる書簡集』(館林市)
『『蒲団』をめぐる書簡集』(館林市)

 また、『田山花袋記念文学館研究紀要』や『花袋研究学会々誌』にも、宮内俊介や宇田川昭子らによって、美知代に関わる書簡や新資料、美知代が晩年に書いた生前未発表小説の原稿の翻刻が掲載されている。

 作家に関する証言としては、晩年の美知代と親しかった原博己が、美知代から聞いた若き日の文壇での交友関係の記憶─国木田独歩や若山牧水、神近市子への親炙など─を書き残している(『晩年の岡田美知代─田山花袋『蒲団』モデル』)。
 また、「カチューシャの歌」「東京行進曲」などで知られる作曲家・中山晋平が美知代に宛てた書簡を『信濃毎日新聞』がスクープしたことをきっかけに、和田登によって晋平と美知代との交友がまとめられた(『唄の旅人』)。
 「蒲団」には「で、未来の閨秀作家は学校から帰つて来ると、机に向つて文を書くと謂ふよりは、寧ろ多く手紙を書くので、男の友達も随分多い。男文字の手紙も随分来る」(三)と揶揄的に記されていたが、書簡や地方雑誌投稿の紹介により、若き美知代が生き生きと豊かな文学的ネットワークを多方面で結んでいたことが浮かび上がる。

 花袋と美知代に関しては、大塚英志が柳田国男と花袋との自然主義観の相剋を考察する過程で、美知代に関しても紙数を割き、花袋が自身の文学観によって美知代を支配しようとする様と美知代による反駁をあぶり出している(『怪談前後―柳田民俗学と自然主義』、『「妹」の運命─萌える近代文学者たち』)。なお、大塚は評論ばかりではなく、原作を担当したマンガ『松岡國男妖怪退治』3~4にも美知代を登場させている。
 小谷野敦は、『『蒲団』をめぐる書簡集』を軸に美知代と花袋の関係を恋愛感情とその表出といった観点から整理している(「岡田美知代と花袋「蒲団」について」)。

 また、永代静雄の研究者である大西小生が、美知代の評伝や著作に関しても実証的な検討を行なっている(『「アリス物語」「黒姫物語」とその周辺』)。なお、大西はwebでも永代夫妻に関する情報を公開している(新「アリス」訳解)。
 美知代の夫・永代静雄は、同志社・早稲田で学んだ後、『中央新聞』等に勤務した有能な新聞記者で、『東京毎夕新聞』の編集局長を最後に辞職して新聞研究所を設立、『新聞及新聞記者』を創刊した。かたわら、新聞に文芸評論を書き、「不思議の国のアリス」の翻案『アリス物語』を刊行するなど、小説家・翻訳家でもあった。夫妻の共作と思われる作品もあり、今後も美知代研究は静雄研究と同伴しつつ進めていく必要があるだろう。

 美知代の作品に関する研究としては、花袋と女弟子・美知代の関係を自然主義教育と恋愛教育の観点から問うた光石亜由美の「ある女の手紙」論が嚆矢である。
 吉川豊子が水野仙子・大塚楠緒子とともに美知代の作品を戦争とジェンダーの観点から検討している。
 岡田美知代に関する修士論文を執筆した相澤芳亮が引き続き美知代の研究を進め、少女小説「英文のお手紙」の背景や水野仙子との関係などを考察している。
 また、瀬崎圭二が明治四〇年代の男性作家たちによる「女流作家論」を検討し、文学場と個人の表現をめぐるメカニズムの観点といった美知代研究の今後の課題を示した。
 遠藤伸治は、花袋の美知代への「自然主義教育」の内実をふまえつつ美知代作品を検討し、「強い同情心、共感性」・「自己肯定的自意識」といった美知代の資質は自然主義とは相いれず、むしろ「遅れてきた浪漫主義者であり、早すぎた白樺派」だと、その文学を評価した。

 有元伸子も、花袋の「蒲団」のモデルとしての呪縛から解き放ち、一人の女性作家として正当に評価することを目標として、2010年から美知代研究に参入した。美知代の著作の全貌が未解明であったため、各地の図書館等で雑誌・新聞調査を行い、研究の基礎となる著作リストを作成した。そのうえで美知代の書き物を検討し、花袋の「蒲団」の成立過程に美知代作品が関わっているという新説を示すなど、研究をおこなっている。

 忘れ去られた作家といった趣のあった美知代であるが、以上紹介してきたように、まずは花袋の周辺人物としての資料発掘や考察が花袋研究者たちによって地道になされ、2000年以降、とくにこの数年は、美知代自身に焦点化した研究が進められつつある。花袋や自然主義との関係はもちろんだが、美知代の作品を解読して資質を抽出し、あるいは、水野仙子など同時代の女性作家と比較検討するなど、花袋の周辺人物としてではなく、一人の女性作家としての岡田(永代)美知代を検討・評価する動きが出つつあるのだ。
 書くことにこだわりつづけ、『青鞜』同人たちとは重なりつつも異なった文脈で「新しい女」として生きようとした生身の美知代の姿は興味深い。小説・少女小説・翻訳と、残した作品も多様であり、意外な深度を持っている。師であった田山花袋との関係や感情も複雑かつアンヴィバレントで、従来のような花袋研究の側からばかりではなく、ジェンダーの視点から美知代に寄り添いつつ、もう少し丁寧に捉え直すべきだと感じている。地域性の側面からも、広島県出身の女性作家の先駆者として、もっと享受されてもよい作家なのではないだろうか。

※ 情報提供のお願い

 下記の作品については、書誌情報が未確認であったり、実物が未見です。
 また、本ページの「著作リスト」に掲載されていない作品に関しても、ご教示いただければ幸いです。

  • 雑誌「希望」に掲載された「秋立つころ」(大正4年12月)・「秋立つ頃」(大正5年1月)は、作品部分のみ現存するが、雑誌は未見。
    「読売新聞」大正4年12月14日の「よみうり抄」には、「▲永代美知代氏は近作秋立つ頃を露西亜人エロシエンコ氏は自作小説「提灯の話」を「希望」新年号に寄せたりと」との記述がある。
  • 『早稲田大学』(第二次、108号、大正3年11月1日)の彙報「新聞雑誌文学一覧」に、美知代が「ドウデエ盲皇帝」を雑誌『たかね』に掲載したと記載されている。
    大正3年9月、または10月号かと思われるが、各地の図書館等でも掲載号を見つけられていない。美知代自身も作品を保存していない。
  • 『女子の友』(大正5年1月)掲載の「縁談」、『復習と受験』(大正13年7月)掲載の「童話 裁判の鐘」も、作品掲載号を実見できていない。
  • 『女学の友』掲載の「東京で」1~10、「三人姉妹」1~9は、掲載年月不明で、雑誌も未見。
  • 「アルフォンス・ドウデー」と「少女スケッチ」の2作は、掲載雑誌・年月ともに不明。
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